光嶋裕介建築設計事務所
光嶋 裕介Koshima Yusuke
2016年度インタビュー
1998年 早稲田大学理工学部建築学科入学
2002(平成14)年 早稲田大学理工学部建築学科卒
2004(平成16)年 同修士課程修了
2004(平成16)年 ザウアブルッフ・ハットン・アーキテクツ(ドイツ・ベルリン)勤務
2008(平成20)年 ドイツより帰国。光嶋裕介建築設計事務所設立
2009(平成21)年 一級建築士免許取得

作家・内田樹の自宅兼合気道場「凱風館」、「レッドブル・ジャパン・本社オフィス(内装デザイン)」、「祥雲荘」などを手掛ける。ASIAN KUNG-FU GENERATIONのステージデザインとドローイングを担当したほか、執筆やイラストでも注目を集める。首都大学東京助教等を経て、大阪市立大学非常勤講師、神戸大学客員准教授に就任。
著書に『みんなの家。建築家一年生の初仕事』『建築武者修行 放課後のベルリン』等がある。2016年9月、ミシマ社より『これからの建築〜スケッチしながら考えた』を上梓予定。

学生時代は、何かやりたいことを見つけて――僕としては建築家になることでしたが――、学部の4年ないし院卒までの6年のあいだ、それをどんどん掘り続ける時間だと思います。
その作業をしなければ、社会に出てから、何の脈絡もなく、突然「明日からオレ、パン屋さんになる!」ということになりかねません。もちろん、それでもいいけれども、直感的にブレずにやり続けることでできる「強度」みたいなものは確実にある。自分の心の声がたしかに聞こえるようになるまでには、時間がかかるのです。
その意味で、自分にとっての核というべきものを作ってくれたのは、まちがいなく早稲田大学本庄高等学院で過ごした3年間でした。

付属校ですから、人より少し早く受験勉強から解放されます。ですから、やらされた勉強というよりは、好きなことばかり学びました。部活だけでも写真部、バスケ部、美術部に所属。バンドや読書もやりつつ、自分が何をしたいのか、何が得意なのかをじっくり見直していました。
なかでも真剣に取り組んだのが芸術です。絵描きになりたいと思い、美大志望者向けの専門学校にも通いました。しかし、そこは自分には合いませんでした。好きで自由に描いていた絵を、教わって描くのが嫌だということに気づいたのです。もちろん、周りの学生たちの絵は上手で、僕とはレベルが違いました。でも、負け惜しみじゃないけれど、似たような絵ばかりで、自分とは違うと思ったのです。
そんな時に声をかけて下さったのが、美術部顧問の吉田茂樹先生(2015年3月退職)でした。
「光嶋、建築はどうだ? 人の命をまもる建築はあらゆる美術の最高峰にあるんだぞ」
たしか吉田先生はこんな風に言ってくれたと思います。そして、本庄高等学院の校舎を設計された穂積信夫先生に会えるよう取り計らってくれました。
穂積先生は高校生だった僕の話を真剣に聞いて下さり、エーロ・サーリネンなどの建築家を教えて下さいました。何よりとても紳士的で、「建築家とはこんなにカッコ良いのか」と思わせてくれました。建築家への憧れが決定的になった瞬間だったのです。
つまり、僕は18歳の大学入学時点で「建築家になりたい」という目標地点がはっきりとありました。それは僕にとって、とても良い影響をもたらしたと思います。
早稲田の建築で、唯一、全教授が勢揃いするのが入学時のオリエンテーションの日で、同じ場所でそれぞれの教授の話を聞ける貴重な機会なのですが、僕はとても真剣に耳を傾けました。建築家への強い志望があったからです。特に、意匠を担当する先生方の言葉は、今でも覚えています。皆さん、良い意味で独特で、自分らしいお話しをされていたというのもありますが。
だから、自分のやりたいことは早く見つけることに越したことはありません。
必要なのは、自分の心の奥にある声を聞くこと、そして、その声を信じ抜く力です。
心の声に耳を澄ませるためには、まず、他人と比較しないことが大事になってきます。僕たちは、年収いくらだとか、家がどう、車がどうだとか、とにかくなんでも比較しがちです。お金を基準に価値を考える習慣も影響しているでしょう。しかし比較ばかりでは物事の本質は見えてきません。
たとえばバスケを始めても、マイケル・ジョーダンという天才のプレイを見たらやめたくなるし、野球もイチローには到底敵いません。でも、トップアスリートになれないからといってスポーツをやめる必要はない。好きならばやり続ければ良い。それが心の声を聞くということです。
マイケル・ジョーダンやイチローには敵わないと思うかもしれないけれど、基準を変えれば彼らとは違うプレイ、あるいは楽しみ方ができます。極端ですが、たとえば、マイケルよりもゴールを外す能力があり、イチローよりも三振する能力がある。足が遅いことで、肩が弱いことで、得していることだってあるはずです。どんな物事も基準によって評価が変わるのだから、比較することにそれほど確実な意味は本来ありません。見方を変えて、自分の特性を自分の強みに変えてしまえばいいのです。

あなたにしかできないことが必ずあります。そう断言できるのは、一人として同じ人間がいないからです。たとえ双子でも、DNAが一緒でも、育ってきた環境が同じでも、違う人間に成長するものです。
でも、その対象を見つける作業は、油田や温泉を見つけるような特別な作業ではありません。井戸を掘るような作業に近いと思います。行き当たりばったりで見つかるものではなく、長い時間をかけて、継続的にヴィジョン(希望)をもって一つの穴を掘り続けてはじめて、遠くにある小さな心の声は聞こえてくるものなのです。
だから、他人の声に左右されないでください。特に否定的な声は無視し、受け流し、自分のやるべきことを続けてください。

僕自身も独立したての頃、他人と比較して、不安に陥り、空回りを続けたことがあります。一時期は、政治家が開催する異業種交流会に場違いにもかかわらず出てみたり、会う人会う人に「家、建てない?」「実家、建て替える予定ない?」と打算的に聞き回ったりしていました。今思うと、僕だってそんな奴に仕事を依頼したくはありません。もちろん、一件も仕事は来ませんでした。
それが内田樹先生との出会いを機に、変化し始めました。学生時代から著作を読み、憧れだった内田先生から依頼を受け、自宅兼合気道場「凱風館」を手がけ、そこから数珠つなぎのように仕事が舞い込むようになったのです。すごくラッキーだったと思います。いつもご機嫌であれば、その人のまわりに自ずと「ご縁」が集まるようになるのかもしれません。
内田先生との出会いを呼び寄せたのも、心の声に耳を澄ませていたからだと思います。きっかけは、僕が好きで講座も受講していた画家の山本浩二先生でした。山本先生は内田先生の著作の表紙を担当していたので、「内田先生の本の話ができるかも」と連絡してみたところ、「今度、麻雀大会があるけど、行く?」と誘ってもらったのがすべてのはじまりです。
この経験から、自分の心の声を信じて、決してブレずに進んでいけば、必ず道は開けると確信しました。きっと思いの強さが極まった時に、しかるべき人と出会えるのだと信じています。

DSC_0387

事務所に飾られてある「幻想都市風景」のドローイングと共に

入学時のオリエンテーションで、最も印象に残ったのは石山修武先生の言葉でした。何やら恐ろしい雰囲気で「デザインなんか勉強したってドングリの背比べだ」というようなことを言ったあと、石山先生はこんな言葉を口にしたのです。
「建築家になりたかったら、500枚の年賀状が来る人間になれ」
忘れもしません。一言一句、正確に覚えています。僕は怯えつつも「何を言ってるんだ、この人は?」と思ったものの、強く惹きつけられました。
しかし、今思えば、建築家として必要なのは「人間性」だと言いたかったのではないか。デザインは美学であり、学び習得することができる。でもそれだけでは建築家になることはできない、と石山先生は伝えたかったのではないか。「凱風館」の後、仕事が舞い込むようになって、そう思ったのです。
僕は石山先生の研究室に入り、建築家としての先生がクライアントと誠心誠意で付き合う姿を見てきましたが、先生はどんなクライアントに対しても決して媚びませんでした。クライアントはお金を出すし、お客様ですから、上位の存在です。でも、先生は妥協できない部分は決して妥協しませんでした。だからこそ、逆にお金では得られない信頼を得ていたのだと思います。
ベルリンで勤務していたザウアーブルッフ・ハットン・アーキテクツのルイーザとマティアスも、顧客との関係性においては石山先生と共通していました。
報酬を超えた部分でこそ、思いと思いでつながる。その思いがさらに広がり、新しいご縁がどんどんつながっていく――そう気づいた時に、「そうか、人と関わる仕事というのは、そういうものなのか」とあらためて深く学びました。

もちろん、これは僕の極めて個人的な経験ですから、石山研究室に入れば誰もが学べるものでもないですし、ましてや早稲田の建築に入れば学べるというものでもありません。
しかし、早稲田の建築には、教授陣も各種人材がそろっているし、学生の人数も多いので、多様性としかいいようがない魅力的な「ひだ」がたくさん存在しました。今もそれはあるはずです。
だから、自分の心の声を聞き、自分に合う「ひだ」を選び取れれば、一生の学びとなる得難い経験ができると思います。